
そんな中で、「この子のためにしてやれることは何なのか」「いま一番大事なことは何なのか」と考えるようになり、音楽も言葉もリズムだからと積極的に取り入れ、リズムに合わせて即興の歌を楽しみながら歌ってやりました。このとき、息子の顔はいつも輝いていました。寝るときも、寝るまで子守歌を歌ったり、お話をしてやるのが日課となっていました。
また、できるだけ同年齢の子供と遊ばせるために保育園に入れ、帰ってきたらどんなに忙しくても話を聞いてやり、話す喜びを覚えさせるようにしました。話といっても言葉はまったくなく、私と息子だけにわかる暗号というか、ジェスチャーのようなものだったのですが……。
五歳になって尾道ろう学校幼稚部に入園と同じくらいに、帝京大学付属病院で難聴という診断がくだされました。それから、親子の戦いが始まったのです。いままでの生活は一変し、本格的に言語、聴能訓練、文字、数を覚え、単語から言葉へ、計算から応用問題へと進められてゆきました。いままでの遅れを取り戻そうと必死のあまり、夜の十時、十一時になることもしばしばでした。それでも眠い目をこすりながら息子はよくついてきてくれました。
やっと先が見えかけたと思った矢先、予期せぬことが起こったのです、突然、昨日までできていた計算がまったくできなくなるのです。言葉も出ません。どんなにしても思い出すどころか完全に忘れ、魂が抜けたような無表情な姿で、ただボーと座っているだけの息子。ところが、何日か経つとまた突然に元の状態に戻る。こんなことが何回かくり返され、やはり耳の聞こえだけでなく脳に欠陥があるのではと、またもや二転三転する診断と症状に絶望感から、二人の子供の手をひいて家を出ました。
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